「つばめ」・「はと」の概要 [編集]
1930年(昭和5年)10月?1943年(昭和18年)10月と、1950年(昭和25年)10月?1975年(昭和50年)3月の間、国鉄には「燕」・「つばめ」の愛称を持つ特急列車が運行されていた。1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業以前は東海道本線の特急であり、長年にわたって国鉄を代表する名門列車とされた。その速度感ある名称から、常に特急列車の愛称として用いられてきたものである。なお同列車の沿革に関しては、東海道本線優等列車沿革と山陽本線優等列車沿革の項目も参照のこと。
一方「はと」は、第二次世界大戦末期まで中国大陸の満州(中国東北部)で運行された列車の愛称であり、戦後は一転して日本国内で「つばめ」の姉妹列車として運行された歴史を持つ。
太平洋戦争前の経歴 [編集]
1930?1943年 東海道本線"超特急"「燕」 [編集]
初出は、1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅?神戸駅間に運転を開始した特急「燕」である。
なおこのときの表記は漢字書きであったが、当時の時刻表などでも漢字表記と平仮名表記が混在しており、また最後尾に掲げられたテールマークも平仮名であったため、平仮名で「つばめ」と表記したとしても、誤りとはいえない。
この愛称は、先行して運転されていた「富士」・「櫻」同様に、1929年(昭和4年)に行われた鉄道省特別急行列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものである。なお、このとき「燕」は2位であった。公募について詳しくは、列車愛称の記述を参照されたい。
東京駅?大阪駅間を、それ以前の特急「富士」に比して2時間半近く短縮する8時間20分で、東京駅?神戸駅間は9時間で走破。その俊足から「超特急」と称された。
当時の長距離列車の例に漏れず、機関車に牽引される客車列車である。一・二等専用だった「富士」、三等車のみだった「櫻」と異なり、一・二・三等車全てを連結した初めての各等特急でもあった。本来は最後尾に一等展望車を連結する予定であったが、当初は展望車の新規制作が間に合わず、1931年(昭和6年)9月まで一等寝台車を座席車扱いとして代用した。列車の設定に当たっては、大阪などで定時運行・石炭節約の功績を挙げていた、山陽鉄道出身の結城弘毅を運転課長として本局に招き、指揮をさせた。
「燕」は最速列車として人気が高く、1931年(昭和6年)12月からは同時間帯に二・三等車で編成された臨時列車「臨時燕」を増発するほど好評を博したが、定期列車と異なり東京?大阪間の運転。1934年12月以降は「不定期燕」と改称し、一時期は一等寝台車も座席車扱いで連結された。
1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルの開業で東海道本線が熱海経由となった。距離・勾配が大幅に短縮・緩和され、東京駅?大阪駅間の所要時間は8時間にまで短縮している。この記録は1956年(昭和31年)11月の東海道本線全線電化までの22年間、破られなかった。
1936年(昭和11年)8月、「燕」に国鉄初の冷房装置搭載の新製食堂車を連結。
尚、この冷房装置の動力には車軸回転を利用していたが故障も多く、数年間にわたり試行錯誤が続けられた。
1937年(昭和12年)7月、「燕」の姉妹列車として、東京駅?神戸駅間に「鷗」を設定。ただし、全区間の所要時間は「燕」より20分長かった。
1940年(昭和15年)、食堂車の冷房装置を使用中止[1]。
1942年(昭和17年)11月、「不定期燕」廃止。
1943年(昭和18年)2月、「燕」は太平洋戦争の激化により運転区間を東京駅?大阪駅間に短縮し、「鷗」は廃止。同年7月、それまでの「特急」を「第一種急行」、「急行」を「第二種急行」と呼ぶようになる。しかし、同年10月、戦争激化に伴い「燕」は廃止となる。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ
速度向上の手段 [編集]
「燕」は到達時間短縮のため、それ以前には例のなかった様々な高速化策を導入した。
機関車の交換省略
1930年(昭和5年)10月、「燕」の運転を開始した当時の東海道本線は、東京駅?国府津駅間が電化されており、従来は特急・急行列車でも電気機関車と蒸気機関車を国府津駅で交換していた。しかし、「燕」ではその交換時間を切り詰めるため、C51形蒸気機関車による東京駅?名古屋駅間通し牽引とした(名古屋駅以西はC53形蒸気機関車が牽引)。国府津?名古屋間では既に「富士」・「櫻」には強力なC53形が投入されていたが、同形式はクランク配置不良のため起動不能になる場合があり、過密ダイヤの東京近郊区間での遅延を避けるため、在来型で信頼性の高いC51形が選ばれた。1934年(昭和9年)12月の丹那トンネル開通後は、東京駅?沼津駅間は電気機関車牽引、沼津駅以西はC53形蒸気機関車の牽引とし、沼津駅で機関車を交換するようになった。
給水停車の省略
蒸気機関車はボイラー用水の消費量が多く、適当な区間ごとに停車して水を補給する必要があったが、「燕」はC51形に専用の水槽車ミキ20形を増結することで、この給水停車もなくした。しかし水槽車は重量がかさみ、高速化や輸送力増強の足かせとなることから、「燕」は1932年(昭和7年)3月以降静岡駅に給水を兼ねて停車するようになった。これに伴い水槽車の連結は中止され、牽引力の余裕を得て三等車1両を増結している。この給水については、鉄道省も相当に苦心を重ねたようで、運行計画の中には「線路沿いに給水タンクをずらりと並べて、各々に線路に向けて放水するパイプを取り付け、通過列車に走行しながら給水する」という奇天烈なものもあった。もちろん、実用化はされていない。鉄道先進国のイギリスでは「フライング・スコッツマン」などで線路の間に水槽(ウォータートラフ)を設けそこから走行中に炭水車から樋を下げて水を汲み上げる機構が実用化されていたが、設備投資やスケジュールの都合上これが不可能であったことからこれらのアイディアを考案せざるを得なかった。
補助機関車の連結・解放迅速化
運転開始当時の東海道本線は現在の御殿場経由であり、1000分の25勾配を有する急峻な山越え区間があった。このため、下り列車は国府津駅から、上り列車は沼津駅から、御殿場駅まで後部補助機関車を連結する必要があった。「燕」はこの連結作業時間をわずか30秒に切り詰め、なおかつ補助機関車の切り離しは、御殿場駅付近通過中に走りながら行った。この補機連結は、1934年(昭和9年)12月、丹那トンネル開通によるルート変更で解消されている。なお当初は走行中に補機を連結する案もあり、実際に試験も行われたが、好成績は収めたものの実用化には至らなかった。
また東海道本線には、大垣駅?関ヶ原駅間にも、同様の急勾配である、1000分の25勾配が存在していた。この区間では、下り列車に限り大垣駅から補助機関車を連結する必要があったが、下り「燕」はここでも国府津・沼津駅同様の30秒停車で早業連結し、登坂し終えた柏原駅付近で走行中に切り離した。
ちなみに走行中の補機解放は当時からさほど難しい技術ではなかったと見られ、同区間を走る多くの列車や他の勾配線区でも実施されていた。しかし、他の列車は推進力確保のため、トルクの強い貨物用の9600形またはD50形を補機に使用していたのに対し、「燕」は高速運転の可能なC53形が担当し、異例となった。ちなみに、起動不良は本務機のC51形が引き上げれば問題なしとされた。また、D50形を補機に使用した例もあった。
この結果運転開始当初の「燕」は、下りは国府津駅から名古屋駅まで、上りは名古屋駅から沼津駅までノンストップとなった。
運転中の乗務員交代
ノンストップ区間では、乗務員交代の停車さえも省略された。交替の機関士と機関助士は先頭の客車内で待機しており、走行中に水槽車・炭水車をよじ登って、前任の機関士・機関助士と交替したという。
事故は無かったというが、さすがにこの交替は危険きわまりなく、1932年(昭和7年)3月以降は静岡駅での給水停車に合わせて乗務員交代も行うようになった。
なお現在では安全上、この様な走行中に車外に出て交替する方法は禁止されている。
「燕」を追い抜いた電車 [編集]
阪急電鉄京都線の前身である(新京阪鉄道→)京阪新京阪線で使用されていた大型大出力電車のデイ100形には、1930年代に山崎付近の東海道本線との並行区間で併走する「燕」を追い抜いたという逸話が残る。