2009年06月25日

終戦以降連合国および戦勝国としての

終戦以降連合国および戦勝国としての正式な地位は、日中戦争(支那事変)から長い間日本軍に対しての戦いを続けていた中国国民党の蒋介石率いる中華民国にあった。しかし戦後4年経った1949年に、ソビエト連邦の支援の下国共内戦に勝利した中国共産党が北京に中華人民共和国を樹立し、敗北した国民党は中国大陸から台湾島に遷都した。その後冷戦下で東西両陣営による政治的駆け引きが行われた末に中華民国が1971年に国際連合から追放されたことで、戦後20年以上の時を経て、戦勝国と国際連合の常任理事国としての地位を終戦時には国家として存在していなかった「中華人民共和国」が引き継いだ。
東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米各国が植民地に対する支配の回復をはかったが、様々な要因[45]により、大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立を果たした。
第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、日本軍との一悶着の末、枢軸側として参戦したが、その裏では在米タイ公使館のセーニー・プラーモートがピブン政権と絶縁し東南アジア向けの反日放送を行ったり、ピブン内閣の実力者プリーディー・パノムヨンらが在日大使館を中心に日本内外に広範なスパイ網を構築し、情報提供によって米軍の日本本土空襲を支援するなど、連合軍側への鞍替えに向けた活動も行っていた。これはいわゆる「自由タイ」抗日運動として知られている[46]。自由タイはタイ国内ではピブーンによって半ば公認された活動となっていき、日本の敗戦の色が濃くなると、また日本と結んだ条約で内政が悪化するとピブーンは1943年首都を日本軍の影響が少なく、陸軍の部隊のあるペッチャブーンに移転する計画を秘密裏に画策、民族主義的な思想の持ち主であったルワン・ウィチットは1943年10月30日外相を解任され、代わりに自由タイのメンバーとして知られていたディレークが外相に任命された[47]。1945年8月16日、プリーディーが摂政の立場で「対英・対米への宣戦布告は無効であった」との宣言が出された[48]。こうしたタイの二重外交は戦後、アメリカの政策と相まって成功しアメリカはタイを敗戦国とすることを避けた。
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一方で、イギリスはほとんど敗戦国として処理したといえる。イギリスは終戦時、速やかに平和条約を結ぶことは拒否[49]、さらに米を賠償させた上で翌年の1946年1月1日にようやく平和条約を結ぶことを許した[50]。また、タイ王国は戦時中に回復したフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧タイ領土を再びフランス、イギリスに取られた形となった。しかしながら、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持することになった。

日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。

ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。

2009年06月10日

ポツダム宣言の受諾と占領統治

1945年(昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連のスターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。この席で、三者は「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国の蒋介石・国民政府国家主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名でこれを発表した(「ポツダム宣言」)。この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。

軍国主義を排除すること。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
民主主義の復活強化へむけて一切の障害を除去すること。
言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すること。
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下し、ソ連軍は8月8日にソ連対日参戦した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」[2])。これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。[3]

降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為その必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」(SCAP)に従属する(subject to)。
From the moment on surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。
The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people.
日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日にポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。翌9月2日、日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦・ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。

降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権は連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部(GHQ)を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。

2009年06月06日

多湿を好む植物は乾きにくく排水や水分蒸散が

多湿を好む植物は乾きにくく排水や水分蒸散が過剰でないもの、乾燥を好む植物はその逆など、植物の水分要求度によって使い分けることがある程度必要で、現実にこのような植物に特化した植木鉢もよく見られるが、培養土の吟味、灌水や栽培場の環境などでかなり調節はできる。むしろ、地下部の形状や大きさによる容量に注意する必要がある。たとえばシャクヤクやフクジュソウなど長いひげ根を持つ植物には大きめの鉢、地下茎で横に繁殖しやすい植物には深さよりも広さのある鉢、ゴボウ状の直根を持つものには深鉢が必要である。一方、着生植物の一部や食虫植物など地下部のあまり発達しない植物では、重心や美的バランスを考慮しなければ小さな鉢でも良い場合もある。またティランジアのように植木鉢をあえて必要としない着生植物もある。

植える植物を取り上げ、根本を掃除して、枯葉や腐った根を取り除く。
鉢の底の穴にふたをする。鉢底のふた専用の陶器製などのものもあるが、用土に含まれる大きめの小石や瓦のかけら、あるいは壊れた植木鉢の破片などがよく使われる。
底から用土を詰める。やや大きめの粒子から入れてゆく。適当に土が入ったら、植物の根を鉢の中に広げ、改めて用土を入れる。根のすき間にうまく用土が入るように、へらなど使うこともよく行われる。用土は詰め込まないように柔らかく入れる。成長途中の苗が倒れないよう、あるいはつる性植物のため、支柱を立てることも多い。
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鉢表面まで用土を入れる。表面に飾りの砂を入れる場合もある。
しっかり水を含ませる。場合によっては、鉢を水に沈ませて引き上げる。
根が落ち着くまでは、やや日陰で水をしっかりやって管理する。

鉢の用土が悪くなったり、植物が大きく育ったりすると、植え替えをする。鉢から植物を用土のまま抜き出し、古い用土を捨て、根本の掃除をして、新しい鉢に植えなおす。植え替えの時期は、大抵は植物の活動が鈍っている時期である。このときに株分けを行うのもよくあることである。

2009年04月23日

傘(かさ、からかさ)

傘(かさ、からかさ)とは、上から降ってくる物に対し、手に持って差しかけて防護する道具である。

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同じく「かさ」と読む漢字に「笠」があるが、これは柄がなく頭にかぶるものである。それに対し傘には柄(え、から)があり、「からかさ」とも読む(「唐傘」は当て字)。同じく柄のあるかさを表す漢字に「簦」がある。

通常は雨や雪が降っている時に体や持ち物を濡らさないために使用されるが、強い日差しを避けるために使用される物もある。前者を雨傘(あまがさ)、後者を日傘(ひがさ)と呼んで区別する。また、材質・地域によって和傘、洋傘の区別もある。また古来は「かさ」とは笠を指し、傘は「差しがさ」と呼称した。

頭上を防禦するための傘を「さす」は、「刺す」ではなく「差す」である。

アンブレラ (umbrella) は雨傘、パラソル (parasol) は日傘のことであるが、広義にはアンブレラで総称する。
傘は、雨傘・日傘、和傘・洋傘の区別なく、一般的に全体を支える軸、全体を覆う傘布、傘布を支える骨によって構成され、この内、軸は石突、軸柄、握柄、ろくろ(ランナー)、ハジキから、骨は親骨、受骨(支骨)、玉留から構成される。また、親骨の先の部分を露先と呼ぶ。

また、付属品として傘カバーや傘袋、バンドがある。

雨傘と日傘
大まかに避ける対象によって、雨傘と日傘に区別される。

雨傘
雨傘は、現在、よく見られる傘であり、軸・骨が金属製で、防水加工した布が張られている物が多い。ただし匠の傘と呼ばれる手作りの高級品の軸(シャフト)には天然樹の樫棒が使用される。また骨もカーボン製の軽いものが使用されている傘も増えてきた。

UNICODEにおいては、雨傘は「U+2602」にコードポイントが割り振られている
日傘は、雨ではなく、強い日差しを避けるための物であり、地面に軸を突き刺して利用する大判の物もあるが、一般に「日傘」と呼ぶ場合は、雨傘と同じく手にもって使用する小型の物を指す。大判の物は「パラソル(parasol、フランス語)」と呼ばれることがあるが、parasolはフランス語の元の意味では婦人用の日傘を指す。

日傘はその用途上、防水機能よりも紫外線反射機能や装飾性が求められ、雨傘と比較してサイズが小さめである場合が多いが、大寸のドーム型パラソルも登場してきた。ビーチで使用されるものは日本ではビーチパラソル、英語ではbeach umbrellaと呼ばれる。都会の雑踏の中で日傘を愛好する人は適度な大きさを選び、道幅に余裕があったり徹底的にUVカットを目指す人は逆に大きいものを好む。関東では総じて街中でも邪魔にならない小さめが好まれ、関西では焼けない大きめを求めるという研究結果もあり、パラソル用途に対するニーズの多様化を示している。また、男性は殆ど利用しないという特徴もあったが、昨今は男性も美肌や熱中症予防、そしてクールビズの用途で愛好家が増えている。沖縄県では男性の日傘愛好会も出来たほどで、静かながらムーブメントが起きつつあると考えてよい。

晴雨兼用傘
日傘の普及に伴い、特に雨天でも使用可能を謳って商品化された日傘。普通の日傘よりも布の目が細かく、水を通さないようになっているが、日傘としても使える雨傘ではなく、不意の雨でも使える日傘といったスタンスで、デザインや大きさなどは日傘に準ずる。「晴雨兼用」とは雨晴両用というニュアンスが強く誤解を受けやすいので、2007年頃より、日本洋傘振興評議会は、業界標準呼称として「晴雨兼用パラソル」を用いるようになってきている。

2009年04月19日

オスマン帝国の改革

「東方問題」(上述)の深刻化と国家的危機に直面し、列強から「瀕死の重病人」とよばれるにいたったオスマン帝国では、アブデュルメジト1世が1839年にムスタファ・レシト・パシャに起草させたギュルハネ勅令を発布し、これを嚆矢としてタンジマート(恩恵改革)とよばれるスルタン専制下での近代化政策が展開した。これは、ムスリム・非ムスリムに関わらず、全ての帝国臣民は法の下の平等にあること、全臣民の生命・名誉・財産を保障すること、裁判の公開を実現すること、さらに、民衆を苦しめていたイルティザーム(徴税請負制度)を段階的に廃止するというものだったが、保守派の抵抗も強く、改革に必要な資金を西欧列強に依存したため、帝国の財政は破綻に向かっていった。

クリミア戦争後、自由主義思想の影響を受けた官僚や知識人から、立憲政治を求める声が高まり、1876年、アブデュルハミト2世はミドハト・パシャ起草によるミドハト憲法を制定した。これは、タンジマートの成果を盛りこみ、二院制議会の開設と責任内閣制を定めた、アジア最初の近代憲法として画期的なものだったが、翌年、露土戦争中にスルタン、アブデュルハミトは憲法を停止し、専制政治を続行した。

エジプト、イランの変化
ムハンマド・アリーの後を継いだイブラーヒーム・パシャは、引き続き、エジプトの近代化を推進した。その成果の1つが、スエズ運河の着工である。1873年に完成したスエズ運河は、地政学上、要地だったエジプトに対して、ますます、イギリスの関心を喚起させる結果となった。というのも、スエズ運河を経由することで、ヨーロッパとイギリスの航行日数が従来のケープタウン経由と比較して、大幅に短縮されたからである。また、スエズ運河の建設によって、北アフリカで最も肥沃だったエジプトですらも経済的に困窮させることとなった。イブラーヒームは、スエズ運河の株式をイギリスに売却することで難局を乗り切ろうとするが、最終的に国家財政は破綻し、エジプト財政はヨーロッパの管理下に置かれた。多くのヨーロッパ人が内閣に参加した。さらに、陸軍のリストラも敢行された。

着々と半植民地化が進む中で、エジプト人は不平を溜め込んでいった。もともと、ムハンマド・アリー朝の首脳部はトルコ系チェルケス人が枢要を占めていたし、さらに、その中でヨーロッパ人が内閣に参加することで、彼らの出世の道は小さくなっていたし、農民は、課せられた重税を耐え切れなくなっていた。その中で陸軍大佐アフマド・ウラービーを中心とする勢力が革命を起こした。「エジプト人のためのエジプト」を掲げたウラービー革命は、1882年のウラービーの陸軍大臣就任で頂点に達した。しかし、これ以上の革命の拡大を看過できなくなったイギリスは、エジプトへの介入を開始する。アレクサンドリア砲撃を皮切りにエジプトに介入した結果、革命は終焉を迎えた。ウラービーはスリランカへ流され、エジプトはイギリスの保護国となった。ウラービー革命後、エジプト国民主義、汎アラブ主義、イスラーム主義の三者の対抗がエジプトの政治で展開されるようになった[20]。

ガージャール朝の時代だったイランもイギリスとロシアの半植民地化が進んでいった。イランの半植民地化が本格的進むのは、1856年のガージャール朝によるヘラート侵攻を起因とする。ナーセロッディーン・シャーは、アフガニスタンへの進出を企図していたがアフガニスタンをイギリスとロシアの干渉国にしたいイギリスは、南部の港湾都市ビーシェヘルに上陸し、軍事的圧力をかけた。翌年、パリ条約をイギリスと締結し、ヘラートへの領土的打診を放棄し、さらに、イギリスとロシアに対して様々な商業特権を与えると同時に、治外法権の放棄と領事裁判権を承認することとした。その結果、他のヨーロッパ列強もイギリスとロシアに追随し、多くの商業特権を得た。

ヨーロッパ諸国がイランに進出することにより、イランもまた、トルコやエジプトと同様に、世界経済に組み込まれていった。ペルシャ絨毯がヨーロッパで珍重されるようになったが、その逆に、廉価な織物がイラン国内に流入したために、零細な織物業者に打撃を与えていった。また、イランも、原料供給地としての性格を帯びるようになり、綿花、果物、ナッツ、アヘンといった農作物を生産するために、大土地所有者による農地の買占めが展開され、重税にあえぐ農民の中では不満が生まれていった。その中、ナーセロッディーン・シャーがイギリスのメイジャー・タルボットにイランで生産されるタバコの独占的販売権を75年間供与したことに起因し、1890年にタバコ・ボイコット運動が起こった。この供与の事実をトルコの日刊紙が報じたことにより、イラン全体に、暴動が波及した。この事件を契機に、ヨーロッパ列強と結託した王政に対しての反対運動が芽生えると同時に、イラン国民というアイデンティティがもたげ始めた。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア


インドの植民地化
イギリスがインドへの支配を強めるにしたがってインド社会の各層に不満が蓄積され、各地で旧領主の蜂起や農民一揆が断続的に起こっていた。

1857年、デリー郊外の東インド会社軍駐屯地で、スィパーヒー(セポイ)とよばれるインド人傭兵が蜂起し、インド大反乱がはじまった。反乱軍は、蜂起の翌日にはデリーを占領し、すでに年金受領者となっていたムガル皇帝を擁立した。この動きに呼応して旧領主・農民・手工業者などがたちあがり、「反乱」はインド北部一帯から中部にまで及んだ。イギリスは、アロー戦争で中国に出動させる予定の兵力をインドにまわし、ネパールのグルカ兵など周辺諸民族も利用して、鎮圧に当たった。反乱軍は強力な指導者を欠いていたため、勢力はしだいに分裂した。

1858年、パーマストン内閣はムガル皇帝を廃位させ、失政の責任をとらせるとして東インド会社を解散、本国政府(インド省)による直接統治体制を確立させた。そして、1877年のディズレーリ内閣のとき、ヴィクトリア女王をインド皇帝とするインド帝国を樹立させた。

大反乱後のイギリスは、藩王国の存続をはかるとともに懐柔策をうちだし、インドにおける宗教対立やカースト上の差異を利用する分断統治を行った。1870年代から80年代にかけては飢饉による反乱が頻発した一方、インド人のなかから綿業を中心に民族資本家がうまれ、富裕な商人・地主、さらに大学教育をうけて官吏や弁護士になる者などのエリート層が台頭した。かれらは、西欧近代思想にふれてインド社会を批判したり、逆にインドの伝統を重視してインド改革の道を模索するなど、政治・文化において多様な運動を展開していった。1885年、イギリス人官僚アラン・オクタヴィアン・ヒューム(en)によってムンバイでインド国民会議が開催された。参加者はインド国民会議派と呼ばれたが、当初はイギリスと協調する穏健派が大多数を占めた。

一方ミャンマーに対しては、1824年から3次におよぶ英緬戦争(イギリス・ビルマ戦争)によってコンバウン王朝を滅ぼし、1886年、イギリス領インド帝国に組み込んだ。

2009年04月04日

大戸平廣吉

大戸平 廣吉(おおとひら ひろきち、1866年8月5日 - 1916年3月13日)は、宮城県仙台市宮城野区出身の大相撲力士。尾車部屋所属。最高位は大関。本名は太田廣吉。現役時代の体格は173cm、101kg。

来歴 [編集]
幼少時から筋骨逞しい体格で、土地相撲で鳴らしたという。東京に上って2代尾車(元前頭5枚目・勝山)の門下に入り、1885年(明治18年)5月場所に序ノ口から初土俵を踏んだ。出世は順調で1890年(明治23年)5月場所で十両昇進、翌1891年(明治24年)5月場所で入幕した。

相撲巧者で、右差しからの鋭い出足を武器に入幕2場所目の1892年(明治25年)1月場所で7勝1敗、早くも優勝相当の好成績を挙げると翌6月場所関脇、1893年(明治26年)1月場所には早くも大関に昇進した。この場所も8勝1預で優勝相当の好成績、当時破竹の連勝街道を歩んでいた小錦に対抗して将来の横綱をも期待されるほどだったが、当時角界酒豪四天王の一人と数えられたほどの大酒が祟って健康を害し精彩を欠き、横綱昇進は果たせなかった。大関から陥落して2年後の1899年(明治32年)1月場所を最後に現役を引退、師匠の死に伴って年寄・3代尾車を襲名した。

大戸平の功績で特筆されるのは「中村楼事件」と両国国技館の建設だろう。

初代高砂の横暴(詳細は高砂浦五郎_(初代)#権勢と終焉を参照)に端を発した1896年(明治29年)1月の「中村楼事件」では西方力士の代表として1月場所の開催をボイコット、「不正なる取締(高砂)の配下にあるを潔しとせず」とする檄文を東京大角力協会に送りつけた。高砂はこの一件を機に権勢を失い、高砂排斥に成功した。

1909年(明治42年)の両国国技館建設にあたっては雷(15代横綱初代梅ヶ谷)らとともに建設委員に名を連ねた。当初「大角力常設館」という名だった初の常設会場を「國技館」と名付けるよう発案したのが大戸平の尾車だったとされる。

協会内ではこのほか検査役も務めるなど重鎮として雷を補佐した。弟子の育成手腕にもすぐれ、弟弟子大砲万右エ門を18代横綱に、大坂相撲を脱退して上京した荒岩を大関に育て上げた。マスコミにも理解を示し、新聞記者や相撲画家を部屋に招いては弟子たちに取り口や技を実演させて、それをスケッチさせるなど媒体を通しての相撲普及にも努めた。

実弟も「青葉山」の四股名で相撲を取り、幕下まで進んだ。

主な成績 [編集]
幕内在位:16場所(うち大関9場所、関脇2場所、小結1場所)
幕内成績:59勝23敗3分3預72休 勝率.720
大関成績:33勝13敗1分1預42休 勝率.717
優勝相当成績:2回(1892年1月場所、1893年1月場所)

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2009年03月20日

東海道本線"超特急"「燕」

「つばめ」・「はと」の概要 [編集]
1930年(昭和5年)10月?1943年(昭和18年)10月と、1950年(昭和25年)10月?1975年(昭和50年)3月の間、国鉄には「燕」・「つばめ」の愛称を持つ特急列車が運行されていた。1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業以前は東海道本線の特急であり、長年にわたって国鉄を代表する名門列車とされた。その速度感ある名称から、常に特急列車の愛称として用いられてきたものである。なお同列車の沿革に関しては、東海道本線優等列車沿革と山陽本線優等列車沿革の項目も参照のこと。

一方「はと」は、第二次世界大戦末期まで中国大陸の満州(中国東北部)で運行された列車の愛称であり、戦後は一転して日本国内で「つばめ」の姉妹列車として運行された歴史を持つ。


太平洋戦争前の経歴 [編集]

1930?1943年 東海道本線"超特急"「燕」 [編集]
初出は、1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅?神戸駅間に運転を開始した特急「燕」である。

なおこのときの表記は漢字書きであったが、当時の時刻表などでも漢字表記と平仮名表記が混在しており、また最後尾に掲げられたテールマークも平仮名であったため、平仮名で「つばめ」と表記したとしても、誤りとはいえない。

この愛称は、先行して運転されていた「富士」・「櫻」同様に、1929年(昭和4年)に行われた鉄道省特別急行列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものである。なお、このとき「燕」は2位であった。公募について詳しくは、列車愛称の記述を参照されたい。

東京駅?大阪駅間を、それ以前の特急「富士」に比して2時間半近く短縮する8時間20分で、東京駅?神戸駅間は9時間で走破。その俊足から「超特急」と称された。

当時の長距離列車の例に漏れず、機関車に牽引される客車列車である。一・二等専用だった「富士」、三等車のみだった「櫻」と異なり、一・二・三等車全てを連結した初めての各等特急でもあった。本来は最後尾に一等展望車を連結する予定であったが、当初は展望車の新規制作が間に合わず、1931年(昭和6年)9月まで一等寝台車を座席車扱いとして代用した。列車の設定に当たっては、大阪などで定時運行・石炭節約の功績を挙げていた、山陽鉄道出身の結城弘毅を運転課長として本局に招き、指揮をさせた。

「燕」は最速列車として人気が高く、1931年(昭和6年)12月からは同時間帯に二・三等車で編成された臨時列車「臨時燕」を増発するほど好評を博したが、定期列車と異なり東京?大阪間の運転。1934年12月以降は「不定期燕」と改称し、一時期は一等寝台車も座席車扱いで連結された。

1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルの開業で東海道本線が熱海経由となった。距離・勾配が大幅に短縮・緩和され、東京駅?大阪駅間の所要時間は8時間にまで短縮している。この記録は1956年(昭和31年)11月の東海道本線全線電化までの22年間、破られなかった。

1936年(昭和11年)8月、「燕」に国鉄初の冷房装置搭載の新製食堂車を連結。
尚、この冷房装置の動力には車軸回転を利用していたが故障も多く、数年間にわたり試行錯誤が続けられた。
1937年(昭和12年)7月、「燕」の姉妹列車として、東京駅?神戸駅間に「鷗」を設定。ただし、全区間の所要時間は「燕」より20分長かった。
1940年(昭和15年)、食堂車の冷房装置を使用中止[1]。
1942年(昭和17年)11月、「不定期燕」廃止。
1943年(昭和18年)2月、「燕」は太平洋戦争の激化により運転区間を東京駅?大阪駅間に短縮し、「鷗」は廃止。同年7月、それまでの「特急」を「第一種急行」、「急行」を「第二種急行」と呼ぶようになる。しかし、同年10月、戦争激化に伴い「燕」は廃止となる。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ


速度向上の手段 [編集]
「燕」は到達時間短縮のため、それ以前には例のなかった様々な高速化策を導入した。

機関車の交換省略
1930年(昭和5年)10月、「燕」の運転を開始した当時の東海道本線は、東京駅?国府津駅間が電化されており、従来は特急・急行列車でも電気機関車と蒸気機関車を国府津駅で交換していた。しかし、「燕」ではその交換時間を切り詰めるため、C51形蒸気機関車による東京駅?名古屋駅間通し牽引とした(名古屋駅以西はC53形蒸気機関車が牽引)。国府津?名古屋間では既に「富士」・「櫻」には強力なC53形が投入されていたが、同形式はクランク配置不良のため起動不能になる場合があり、過密ダイヤの東京近郊区間での遅延を避けるため、在来型で信頼性の高いC51形が選ばれた。1934年(昭和9年)12月の丹那トンネル開通後は、東京駅?沼津駅間は電気機関車牽引、沼津駅以西はC53形蒸気機関車の牽引とし、沼津駅で機関車を交換するようになった。
給水停車の省略
蒸気機関車はボイラー用水の消費量が多く、適当な区間ごとに停車して水を補給する必要があったが、「燕」はC51形に専用の水槽車ミキ20形を増結することで、この給水停車もなくした。しかし水槽車は重量がかさみ、高速化や輸送力増強の足かせとなることから、「燕」は1932年(昭和7年)3月以降静岡駅に給水を兼ねて停車するようになった。これに伴い水槽車の連結は中止され、牽引力の余裕を得て三等車1両を増結している。この給水については、鉄道省も相当に苦心を重ねたようで、運行計画の中には「線路沿いに給水タンクをずらりと並べて、各々に線路に向けて放水するパイプを取り付け、通過列車に走行しながら給水する」という奇天烈なものもあった。もちろん、実用化はされていない。鉄道先進国のイギリスでは「フライング・スコッツマン」などで線路の間に水槽(ウォータートラフ)を設けそこから走行中に炭水車から樋を下げて水を汲み上げる機構が実用化されていたが、設備投資やスケジュールの都合上これが不可能であったことからこれらのアイディアを考案せざるを得なかった。
補助機関車の連結・解放迅速化
運転開始当時の東海道本線は現在の御殿場経由であり、1000分の25勾配を有する急峻な山越え区間があった。このため、下り列車は国府津駅から、上り列車は沼津駅から、御殿場駅まで後部補助機関車を連結する必要があった。「燕」はこの連結作業時間をわずか30秒に切り詰め、なおかつ補助機関車の切り離しは、御殿場駅付近通過中に走りながら行った。この補機連結は、1934年(昭和9年)12月、丹那トンネル開通によるルート変更で解消されている。なお当初は走行中に補機を連結する案もあり、実際に試験も行われたが、好成績は収めたものの実用化には至らなかった。
また東海道本線には、大垣駅?関ヶ原駅間にも、同様の急勾配である、1000分の25勾配が存在していた。この区間では、下り列車に限り大垣駅から補助機関車を連結する必要があったが、下り「燕」はここでも国府津・沼津駅同様の30秒停車で早業連結し、登坂し終えた柏原駅付近で走行中に切り離した。
ちなみに走行中の補機解放は当時からさほど難しい技術ではなかったと見られ、同区間を走る多くの列車や他の勾配線区でも実施されていた。しかし、他の列車は推進力確保のため、トルクの強い貨物用の9600形またはD50形を補機に使用していたのに対し、「燕」は高速運転の可能なC53形が担当し、異例となった。ちなみに、起動不良は本務機のC51形が引き上げれば問題なしとされた。また、D50形を補機に使用した例もあった。
この結果運転開始当初の「燕」は、下りは国府津駅から名古屋駅まで、上りは名古屋駅から沼津駅までノンストップとなった。
運転中の乗務員交代
ノンストップ区間では、乗務員交代の停車さえも省略された。交替の機関士と機関助士は先頭の客車内で待機しており、走行中に水槽車・炭水車をよじ登って、前任の機関士・機関助士と交替したという。
事故は無かったというが、さすがにこの交替は危険きわまりなく、1932年(昭和7年)3月以降は静岡駅での給水停車に合わせて乗務員交代も行うようになった。
なお現在では安全上、この様な走行中に車外に出て交替する方法は禁止されている。

「燕」を追い抜いた電車 [編集]
阪急電鉄京都線の前身である(新京阪鉄道→)京阪新京阪線で使用されていた大型大出力電車のデイ100形には、1930年代に山崎付近の東海道本線との並行区間で併走する「燕」を追い抜いたという逸話が残る。

2009年03月05日

長壁姫/白粉婆

姫路城の天守閣に隠れ住んでおり、年に一度だけ城主と会い、城の運命を告げていたと言う。松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っているためであり、住処に人が立ち入ると、3メートルもの身長に巨大化して追い払ったという[1]。

鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では「長壁(おさかべ)」とされ、コウモリを従えた老姫の姿で描かれている。一方で江戸時代の奇談集『老媼茶話』では十二単を着た気高い女性とされ、小姓の森田図書が肝試しで天守閣に駆け登ったところで長壁姫と出会い、「何をしに来た」と訊ねられて「肝試しです」と答えると、その度胸と率直さに感心した長壁姫は肝試しの証拠品としてしころ(兜につけて首元を守る防具)をくれたという。

剣豪の宮本武蔵も長壁姫と出会い、彼女に取りついていた妖狐を追い払い、彼の豪胆さに感銘を受けた長壁姫が宝剣を授けたともいうが、これは前述の『老媼茶話』をもとにした伝説ともいわれる[3][4]。

井原西鶴による『西鶴諸国ばなし』では、長壁姫は800匹の眷属を操り、自在に人の心を読みすかし、人の心をもてあそんだと、妖怪として人間離れした記述が為されている[2]。

北尾政美による黄表紙『夭怪着到牒』にも「刑部姫」の表記で登場しており、同書では刑部姫の顔を見た者は即座に命を失うとある[5]。

長壁姫の正体は一般には老いたキツネとされるが[2]、井上内親王が息子との間に産んだ不義の子[2]、伏見天皇が寵愛した女房の霊[2]、姫路城のある姫山の神などの説もある[6]。また『綜合日本民俗語彙』では、姫路から備前にかけての地域ではヘビがサカフと呼ばれることから、長壁姫を蛇神とする説が唱えられている[2]。前述の『老媼茶話』では猪苗代城の妖姫・亀姫の姉とされ、泉鏡花の小説『天守物語』でもその設定で書かれている[3]。

また実際には、姫路城の本丸にある刑部明神が多くの誤伝を生み、稲荷神と習合するなどして、天守閣に住むキツネの妖怪という伝承が生まれたとする説もある

白粉婆(おしろいばばあ、おしろいばば)または白粉婆さん(おしろいばあさん)は、奈良県吉野郡十津川流域に伝わる老婆の妖怪
鏡を引きずってジャラジャラと音を立てつつ現れる、老婆の姿の妖怪といわれる[1]。

鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』には「白粉婆」の名で、ひどく腰の曲がった老婆が、大きな破れ傘を頭に被り、右手で杖をつき、左手には酒徳利を持っている姿が描かれている。同書の解説文によれば、脂粉仙娘(しふんせんじょ)という白粉の神に仕えている侍女とされているが、奈良の伝承における白粉婆と同一のものかは不明[1]。顔一面に白粉を塗りたくっているが、この塗り方が厚ぼったい上にひどく雑で、見るだけで恐怖を覚えるともいう[2]。

民俗学者・藤沢衛彦の著書『図説民俗学全集』によれば、雪女と同種の妖怪であり、石川県能登地方で雪の降る夜に酒を求めて現れるとされるが[1]、実際には能登にはそのような伝承は存在せず、藤沢が『今昔百鬼拾遺』から連想して創作したものとの説がある[3]。

また上記の白粉婆との関連は不明だが、室町時代に「白粉婆」という名の老婆が現れたという、以下のような伝説もある。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

天文6年。長谷寺の座主・弘深上人の発案で、戦乱の世を少しでも良くするべく、本堂一杯の大きさの紙に寺の本尊である観音菩薩を描くことになり、全国から画僧たちが集まった。しかしある日、足利将軍家の軍勢が寺に押しかけ、寺や町の穀物を根こそぎ徴発してしまった。噂を聞いた画僧たちは食事が出ないのでは不安がっていたところ、寺の小僧は事情を説明した上で、それでも観音の救いによって食事の支度ができると伝えた。不思議に思った画僧たちが小僧の案内で井戸端へ行くと、1人の娘が米を研いでいた。桶で研いだ米をざるにあけると、桶に1粒だけ米が残り、それを水につけると米が桶一杯に膨れ上がり、それをさらに研ぐことで米はどんどん増えていた。画僧の1人は、彼女が観音の化身ならば顔を見てみたいと、仲間の制止も聞かずに小石を投げつけた。すると浄土を思わせる光が差し、娘は顔を上げた。その顔は白粉を塗っていたが、画僧たちのために苦労を重ねたことで皺だらけの老婆のようになっていた。しかし画僧たちはそのまばゆさ、ありがたさを前にして1人残らずひれ伏していたため、誰1人その素顔に気づくことはなかった。以来、画僧たちは仕事に打ち込み、見事な大画像が完成したという[4]。現在でも長谷寺の境内には白粉婆の堂があり、その老婆が祀られている。明治時代の頃までは、毎年正月の修正会でこの像に白粉を塗る行事が行われていたという

2009年02月14日

DALK

セイル(せいる)
神官を目指す修行僧。本作の主人公。年齢は19歳。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

封印された恋愛神マーティスを開放し同じ恋愛神のミラを封印する為に14人の女の子達と冒険に出る事になった。
マーティスから貰ったゴットバイヴ(正式名称は「黄金(こがね)の杖」)の影響で女の子達から急に慕われるようになったが、同時に同性に対しては無力になり同性からは嫌われるようになった。
修行僧らしく真面目で勤勉な性格で、ゴットバイブを貰うまではまったく女性経験がなかった。
シグルーン(しぐるーん)
元傭兵。
真面目で物静か。己を鍛える為に傭兵をしていた。リュートを弾くのが趣味で初恋の相手から貰ったリュートを大事にしている。
将来は故郷の王室直属の近衛兵になりたいと思っている。
シルヴィア(しるヴぃあ)
考古学者。
落ち着いた大人の女性。どんな状況でも冷静で的確な判断をする。
エドワーズと言う考古学者と不倫している。
ティロル(てぃろる)
元サーカスの団員。
サーカス団から抜け出し一人旅をしていた。サーカスにいた頃はライオン使いでライオンの檻の前で捨てられていた捨て子。
性格は明るく元気で、クウとファローラとよく一緒に遊んでいる。
チョルラ(ちょるら)
元踊り子で盗賊の仲間等もやっていた。
パーティの中で最年長で明るく陽気な性格。お酒が大好きで昼間から飲んでいる。
セイルの筆おろしの相手でセイルやクウに色々教えようとしている。
ジーマ(じーま)
ギルドのボスの一人娘。
父親と喧嘩をし家出中でリムリアの宿屋に長期滞在している。
イーゴ(囲碁)が趣味で魔法で知能が備わったぬいぐるみのデ・ダナンとよく勝負している。
アリーヌ(ありーぬ)
街の少女。
両親が事故で死んでしまい残った兄弟の為に酒場で働いていた。極度の方向オンチ。
趣味は料理で一流の腕前。ジーマと仲がいい。
ミコ(みこ)
街の少女。
物静かで無口で雰囲気が神秘的な不思議な女性。幼少の頃は病弱だった為家からあまり出たことがなく、人と会話することになれていない。
動物や植物と心をかよわすことが出来る。男性恐怖症だがセイルの事を心から慕っている。
ルー(るー)
賞金稼ぎや傭兵などをしていた。
豪快でさっぱりした性格で自由奔放。戦闘経験豊富で10歳の頃からモンスターと戦っていた。
過去に色々あり恋愛に臆病になっている。女の子らしい一面もある。
エリスン(えりすん)
牧場の娘。
読書好きで色んなジャンルの本を読んでいるが本を買うのに借金をしている為、セイルが出した求人を見て共に冒険することになった。
生後半年で言葉を喋ったり1歳の頃から読書が出来た為神童と言われていた。将来は偉い人になることが目標。運動オンチ。
ファローラ(ふぁろーら)
獣人族の少女。
本来は人と関わらず町に来ないはずだが好奇心と観光の為町に来た(本当は族長の命で人間との新たな関係を築く為)。カタコトで喋る。
ライオン族でネズミ等を見るとすぐに追いかけ回している。
アルピナ(あるぴな)
ヨルガの修行僧。
師匠の命で修行の途中で下山してきた。修行で得た力を制御する為イヤリングをしているが副作用で知力を抑えてしまう為、本当は真面目で賢いが馬鹿になっている。
字が読めない為エリスンに教えてもらっている。
クウ(くう)
田舎の村の村長の娘。
クウの住んでいた村に旅の途中に立ち寄ったルーに付いて行き街に来た。
何故か神に愛されている。
リムリア(りむりあ)
宿屋の一人娘。
父親と二人暮らしで二人で宿屋を切り盛りしている。
趣味はお茶のブレンドの研究と家事。
リンス(りんす)
歌手。
リンスが歌を歌うと周りの人々が明るく元気になる。みんなのアイドル。
趣味はぬいぐるみ集めでランスのぬいぐるみが一番のお気に入り。

サブキャラクター
恋愛神マーティス(れんあいしんまーてぃす)
男女の恋愛を司る神で女性の感情を管理を行う。男性には完全に無力。
ミラを怒らせミラに封印されていた所をセイルに一部の封印の解いて貰い、封印を完全に解いて欲しいとセイルに依頼する。
女性が好きでセイルに女性の悦ばし方など色々と教えてくれる。
恋愛多体神ミラ(れんあいたたいしんみら)
男女の恋愛を司る神で男性の感情を管理を行う。女性には完全に無力。
ある事件がきっかけでマーティスを封印した。
女神アスター(めがみあすたー)
恋愛多体神ミラの分身。
マーティスの封印を守る。何も生み出さない争いが嫌い。
女神ライラック(めがみらいらっく)
恋愛多体神ミラの分身。
マーティスの封印を守る。わがままな性格。
女神アカシア(めがみあかしあ)
恋愛多体神ミラの分身。
マーティスの封印を守る。少女達を鏡の中に閉じ込めていた。
女神マルベリー(めがみまるべりー)
恋愛多体神ミラの分身。
マーティスの封印を守る。陽気な性格。
女神ジキタリス(めがみじきたりす)
恋愛多体神ミラの分身。
マーティスの封印を守る。落ち着いた大人の女性。
女神ナデシコ(めがみなでしこ)
恋愛多体神ミラの分身。
マーティスの封印を守る。残虐非道でわがままで子供っぽい。
DALK神(だるくしん)
女神。
DALKへのクラスチェンジの条件を満たした者の前に姿を現す。
オードリィ(おーどりぃ)
盗賊団ウラノスのお頭。
男勝りで自分勝手な性格。エリンスの姉。
恥かしい格好で鞭を振り回している。妹思いで思い込みが激しい。
ウィステリア(うぃすてりあ)
エルフの街の女王。
ダークエルフに捕まり尋問されていた。

2009年01月27日

I.Ae. 27 プルキー I

I.Ae. 27 プルキー I(I.Ae. 27 Pulqui I)は、1946年にアルゼンチンの航空技術研究所(Instituto Aerotecnico)で開発されたジェット戦闘機である。

プルキー I の設計はフランス人技術者エミール・ドボアチン(Émile Dewoitine)に率いられたJuan Ignacio San Martín(軍人)、Enrique CardeilhacとNorberto L. Morchioが所属する設計チームによって行われた。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

胴体は楕円断面のセミモノコック構造で、空気吸入口は機首に操縦席を取り囲むように設置されていた。胴体の内部容積を減らすために燃料タンクは翼内に追いやられたが、このために航続距離は大幅に短くなった。

テストと評価
試作機の初飛行はオズヴァルド・ヴァイス(Osvaldo Weiss)中尉の操縦で1947年8月9日に行われた。本機の性能は不満足なものであると考えられ、そのうちに真に先進的でより発展性のあるI.Ae. 33 プルキー II の研究が進んだためにプルキー Iの歴史は短いものであった。それにもかかわらず航空機史の中でプルキー Iはアルゼンチンとラテンアメリカで開発、製造された最初のジェット戦闘機として価値のあるものである。プルキー I によりアルゼンチンは世界で5番目の自力でジェット戦闘機を開発した国となった。

修復された試作機は現在ブエノスアイレスのモロン(Morón)にあるアルゼンチン空軍(Fuerza Aérea Argentina)の航空博物館(Museo Nacional de Aeronáutica)に展示されている。

(I.Ae. 27)

乗員:1名
全長:9.69 m
全幅:11.25 m (初期モデル、円形翼端)、10.50 m (最終モデル、角形翼端)
全高:3.39 m
翼面積:19.70 m? (初期モデル)
空虚重量:2,358 kg
最大離陸重量:3,600 kg
エンジン:ロールス・ロイス ダーウェント 5 ターボジェット 1,633 kg
最大速度:720 km/h
巡航高度:14,000 m
航続距離:900 km
武装:(計画のみで試作機には装備されず)
機首に20mm機関砲 * 4
翼下に爆弾かロケット弾