終戦以降連合国および戦勝国としての
終戦以降連合国および戦勝国としての正式な地位は、日中戦争(支那事変)から長い間日本軍に対しての戦いを続けていた中国国民党の蒋介石率いる中華民国にあった。しかし戦後4年経った1949年に、ソビエト連邦の支援の下国共内戦に勝利した中国共産党が北京に中華人民共和国を樹立し、敗北した国民党は中国大陸から台湾島に遷都した。その後冷戦下で東西両陣営による政治的駆け引きが行われた末に中華民国が1971年に国際連合から追放されたことで、戦後20年以上の時を経て、戦勝国と国際連合の常任理事国としての地位を終戦時には国家として存在していなかった「中華人民共和国」が引き継いだ。
東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米各国が植民地に対する支配の回復をはかったが、様々な要因[45]により、大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立を果たした。
第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、日本軍との一悶着の末、枢軸側として参戦したが、その裏では在米タイ公使館のセーニー・プラーモートがピブン政権と絶縁し東南アジア向けの反日放送を行ったり、ピブン内閣の実力者プリーディー・パノムヨンらが在日大使館を中心に日本内外に広範なスパイ網を構築し、情報提供によって米軍の日本本土空襲を支援するなど、連合軍側への鞍替えに向けた活動も行っていた。これはいわゆる「自由タイ」抗日運動として知られている[46]。自由タイはタイ国内ではピブーンによって半ば公認された活動となっていき、日本の敗戦の色が濃くなると、また日本と結んだ条約で内政が悪化するとピブーンは1943年首都を日本軍の影響が少なく、陸軍の部隊のあるペッチャブーンに移転する計画を秘密裏に画策、民族主義的な思想の持ち主であったルワン・ウィチットは1943年10月30日外相を解任され、代わりに自由タイのメンバーとして知られていたディレークが外相に任命された[47]。1945年8月16日、プリーディーが摂政の立場で「対英・対米への宣戦布告は無効であった」との宣言が出された[48]。こうしたタイの二重外交は戦後、アメリカの政策と相まって成功しアメリカはタイを敗戦国とすることを避けた。
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一方で、イギリスはほとんど敗戦国として処理したといえる。イギリスは終戦時、速やかに平和条約を結ぶことは拒否[49]、さらに米を賠償させた上で翌年の1946年1月1日にようやく平和条約を結ぶことを許した[50]。また、タイ王国は戦時中に回復したフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧タイ領土を再びフランス、イギリスに取られた形となった。しかしながら、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持することになった。
日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。
ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。